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母の病気がきっかけで出逢った、治療家の先生方に憧れ、症状で苦しんでいる人の助けになりたい、サポートできる仕事がしたい、というのが10代の頃からの夢だったからです。
「ごめん・・実はガンだった・・」
忘れもしません。ちょうど、阪神・淡路大震災があった1995年1月の数ヶ月前、母の入院先の病院に見舞いに行った際、母自身から聞いた言葉です。
入院する前は、子宮筋腫の手術と聞いていましたので、そんな深刻な気持ちになることもなく、病院に行きました。でも、実は、母自身は、手術する前からガンだということは分かっていて、子宮・卵巣を全摘出し、しかも、ガン細胞は取りきれないほど広がっていて、余命1年を宣告されていました。
私は21歳。母は45歳。そんなことになるなんて思いもよりませんでした。そこから、身体のことを独学で学ぶ日がスタートしたのです。
その後、長期入院になり、抗がん剤治療が始まりました。そして、髪の毛が少しずつ抜け、薬の副作用ですごく苦しんでる母を目の前で見て、「他に救う方法はないんだろうか?」「このまま苦しみながら、残りの短い人生を過ごすしかないんだろうか?」
そんな疑問の答えを探し求めて、いろんな本を読んだり、いろんな人に会いました。そして、学んだことや聞いたことを母に伝える日々でした。
「このまま入院したまま、副作用で苦しみ続けるより、たとえ人生短くなっても、自宅に帰って、療養しながら好きなことをする方が良いよ、絶対に。」そんなふうに伝えて、結果、母も、病院の先生や周囲の反対を押し切って、抗がん剤治療も途中でやめて自宅に帰ることを決断しました。
色々と独学を進めていくうちに、色んな治療家の先生に出逢うことができました。
鍼灸の先生だったり、ハーブを研究している先生だったり、自然療法の先生だったり、やり方は人それぞれでしたが、色んな考え方に触れて、とても大切な学びを得ました。
人生とは何か、治癒とは何か、健康とは何か・・今でも役になっていますし、治療家として大切な基礎はこの頃に学びました。
10代の頃、夢は何かと聞かれても答えられなかった私ですが、20歳過ぎて、初めて夢と呼べるものができました。「治療家になりたい!」という夢でした。
「僕も、人の助けになれるような仕事がしたい!」そう本気で思い、治療家への道について本で調べたりして、鍼灸師を目指そう!と決意しました。具体的な貯金計画も立てました。鍼灸学校も具体的に調べて、資料も取り寄せたりしていました。
おかげさまで、母もこの頃は、薬の影響も抜けて仕事にも復帰できていたので、自分のことに集中できました。
私の中では、もうやる気満々だったのですが、治療家の先輩方にいざ相談すると、意外な反応と意外なアドバイスを受けました。
「もっと社会を経験してから。それからでも遅くない。」
「一度、サラリーマンを経験して、ちゃんともまれてみなさい。」
「人を助けるには心の勉強も必要。そのために色んな経験を積むといいよ。」
誰も、20歳過ぎで治療家の夢を追いかけることに対して、積極的に肯定してくれる人はいませんでした。
どちらにしても、鍼灸学校に行くにはかなりの大金が必要で、貯金から始めないといけない。というのもあり、悩んでいるうちに、縁もあって会社員の道に進むことになったのです。
退院してから、余命宣告を受けた一年も過ぎ、旅行にもたくさん行って元気そうにしていました。
私から見ても、このままずっと長生きできるのではないかというほどでした。
しかし、3年後、ガンが再発し、この世を旅立ちました。まだ48歳の若さでした。
母が亡くなるのと、同じ時期に会社に就職しました。でも、貯金をして鍼灸学校に行って治療家になるんだ!という夢はだんだん薄れてしまいました。
「母を救えなかった人間が、他の人を救えるわけがない。」
「そもそも、あの退院は本当に良かったのか?母が48歳で亡くなったのは、自分のせいなんじゃないのか?」
そんなふうに自分を責めるようになってしまい、忙しさも相まって、自分の頭から治療家への夢は消え去っていきました。
それから、10年ほどが経ち、会社を辞めることになりました。
そして、心をリセットして、次の道を探すことになった時、治療家の先輩方からのアドバイスを思い出しました。
「サラリーマン10年経験できたよね。」「心理学講座などを受講したりして、なんだかんだで心の勉強は続けてたよね。」「それなりに色々社会にももまれて無事結婚もできたよね。」
「今こそ、治療家を目指すのに最適な時期なのかもしれない」
そう強く思うようになりました。そして決断しました。
「もう一度、治療家への道をチャレンジしてみよう!」と。
治療家の学校を探している中、通うことになる整体学校のサイトを見つけました。
「超一流の治療家を目指す、社会人経験者の方へ」というフレーズでした。
自分にぴったりの学校!とピンと来ました。
社会人経験者を少数精鋭で治療家を育成し、独立開業させる学校です。代表の荒田顕司先生の考えで「良い治療家になるためには、社会人を経験してからの方が良い」ということで、社会人経験者のみの募集でした。
10年前先輩方から頂いたアドバイスと同じ考えの学校だったので、もうここしかない!と思い、入学試験を受け、無事に合格することができました。
入学が決まって最初にすることは二つ。
掃除を徹底的にして環境を整えること。
もう一つは開業場所も決まっていないうちからホームページを作成すること。
でした。
入学が決まってから実際に学校が始まるまで半年くらいあったのですが、入学決定直後からある意味カリキュラムは始まっていて、多忙な日々がスタートしました。
今思い出しても、本当に厳しい2年間でした。でも、社会人を経験しているとは言え、身体や心、健康に関してど素人な人間が、たった2年間で独立開業するわけですから当然のことです。
朝から夜遅くまで、医学的知識の勉強やホームページ作成、治療技術の練習、さまざまな治療院の運営に関するスキルや心構えを学日々でした。
丸一日の休みは元旦のみでした。
2年間収入もほとんどない中で生活も切り詰めてるので、精神的にもきつい期間でした。でも、独立開業を夢見て、希望を捨てずに踏ん張りました。
座学の期間が過ぎると、今度は実際の研修生活が始まりました。
実際に研修所の治療院を任され、自分たちで仲間と協力し合いながら、学びながら試行錯誤で運営しました。
広告も1からです。最初の時期は、チラシ配りの毎日でした。朝から晩まで1日に1000枚以上配った日もありました。そうやって、自分たちで患者さんを集め、少しずつ施術経験を積んでいきました。
失敗も多く、緊張でガタガタ震えていた時もありました。精神的にも追い込まれて、自信を何度も失いました。治療家になんてなれないのではないか。と諦めかけたこともありました。
でも、師匠や先輩や仲間に励まされて、なんとか乗り越え、2年間で述べ2700名以上の施術を経験した後、高槻市で開院する準備をするところまで辿り着きました。
堺市で研修を続けながらの開院準備でしたので、大変でした。
合間に買い物に行って備品を購入したり、先輩の院に行かせて頂いて院の雰囲気を掴んだり、不動産屋さんに行ってテナント探しをしたりと、堺市と高槻市を往復する日々でした。
特に、テナント探しは困難を極めました。
学校独自の厳しい条件がいくつもあり、その条件をクリアしたテナントを探す必要があったからです。
1ヶ月探しても2ヶ月探しても、見つかりませんでした。複数の不動産屋さんに行きましたが、あまりに条件が厳し過ぎて呆れられてしまうこともありました。
3ヶ月が経とうとして、今日見つからなかったら妥協して、条件に1番近いところを選ぼうと決断した、その最終日に奇跡的に見つかりました。(現在の移転先も同じ条件で探し見つけました)
苦労して見つけたおかげで、10年間、心地良く施術できましたし、来院くださった方々からも「すごく落ち着きます」と高評価でした。
(現在の空間はさらに・・より落ち着けてリラックスできます。との感想を頂いております。)
2010年5月22日。晴れて開院することができました。
2年前からホームページを作成していたので、開院と同時にご予約も頂けて、順調よくスタートできました。
整体学校の代表や先輩方、同じ志を持つ仲間のみんな、家族、友人・・多くの人に支えられて、励まされて、ようやく15年越しの夢が実現できました。
開院してそれなりにいろんなことがありましたが、なんとか乗り越え続けて、来年で10周年の節目という時に、最大の危機が訪れました。
10年やり続けて環境を少し変えたいということと、また空間を変えてより良い場所で施術を提供したい。という思いから、移転を決断しました。
移転を決断したのが2019年11月。移転予定月が2020年5月。
半年の準備期間があったので準備はゆっくりできたはずなんですが、この半年間の間に思いもよらないことが起きました。
知らない人はいないだろう激動の出来事、それがウイルス流行によるパンデミックです。
治療院は病院と同じ扱いだったので、飲食店のように休業して補助を受けるということができませんでした。でも、当初は既存の方も自粛があったり、新規の人は全然来ない。という状況になりました。
移転にかかる費用も、毎月の運営に補填しなければいけなくなり、移転する費用が無くなってしまったんです。
これは危機だという時に、仲間のみんなが助けてくれました。自分の院も大変な時期に、私のために協力してくれたんです。本当に助けられました。人生初めてのクラウドファンディングをして、資金を集めることができました。
そして、なんとか予定通り、2020年5月に前のテナントから今のテナントに移ることができ、6月に移転オープンすることが叶いました。
このタイミングで、院名も変えて新たな気持ちで出発しようと決め、仲間の皆さんに夜な夜な相談して、候補を色々出し合って無事に決めることができました。
それが整体院きなりという名前でした。
いつの間にか、50歳を迎えることができました。
母が経験できなかった50代以降の人生。これからも迎えられたことに感謝しつつ、楽しんでいきたいと思います。そして、これからも症状で辛い思いをしている方々のサポートを続けていくことの重要性を実感しています。
治療院に来院される方々の症状は、命には別状のない症状ばかりです。でも、その症状を治すサポートをすることが、そして、健康を維持するサポートをすることが、長生きにも繋がっていきます。
いつまでも健康な状態で長生きしたい。ほとんどの人の夢であり目標なはずです。
なのに、症状で辛い思いをしているときは、心身のケアに意識がいきますが、ひとたび治るとまた同じような生活に戻って、心身のケアに意識が向かなくなる人が少なくありません。
また、身体のケアはそれなりにやっても、自分の心には目がいかなかった理する人も多くいらっしゃいます。心と身体は繋がっています。心身一体です。
心と身体、両方のケアの大切さを、これからも多くの人に伝え続けいくことが、私の使命だと思っています。
そのためにも、自分自身が1人1人との出逢いを大切にし、真摯に向き合い、前向きに希望と確信を持って、この治療家というお仕事をこれからも続けていきます。
今後とも引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
長文になりましたが、お読みくださりありがとうございました。