私が開院した理由
【母の病気】
私が、治療家を目指すようになったきっかけ・・
それは、母の病気でした。
阪神・淡路大震災があった年。
1995年の1月。
ちょうど私は、実家にいたのですが、
母は入院しておりました。
あの地震の大揺れを、母は病院の一室で経験しました。
卵巣がんを患っており、余命1年と宣告されていました。
【私を突き動かしたもの】
その後、長期の入院が続き、
抗がん剤で苦しんでいる母を目の当たりにして、
病院で薬で苦しみながら、残りの余生を過ごすしかないのか?
ほかに治療方法とかはないんだろうか?
そんな疑問が、私を突き動かしたのです。
さまざまな本を読みあさり、
いろんな治療方法や健康食品のことなどを調べました。
そのようにして素人ながら勉強したことを、
母に、お見舞いの度に話すようになったんです。
結果・・・
母は、抗がん剤治療の途中で病院を抜け出し、
周囲の反対を押し切って、
「自宅治療」を行うことになりました。
知人のつてなどもあり、
何人かの治療家とお会いすることができ、
いろいろとアドバイスをいただきながら、
自宅治療を進めていきました。
【治療家になりたい!】
治療家の方々の話しをお聞きしているうちに、
『僕も、人の助けになれるような
「治療家」の仕事がしたい!!』
日に日にそんな気持ちが増していきました。
そして、「鍼灸師」になろう!
そう決意し、具体的な貯金計画も立てました。
まずは夜勤のバイトなどで貯金し、
「鍼灸学校」に通おう!
そんなふうに思っていました。
「人を救えるような存在になりたい!」
「苦しんでいる人の手助けをしたい!」
そんな気持ちで夢いっぱいでした。
【先輩治療家の意外な反応・・】
しかし、治療家の方々にそのことを打ち明けると、
皆、私が予想していたものとは違う反応でした。
「もっと、社会を経験してから。それからでも遅くないよ。」
「一度サラリーマンを経験して、もまれてみればいい。」
「人を救うには、ココロの勉強もちゃんとしなさい。」
そんなアドバイスでした。
どちらにしても、
経済的に、すぐには学校に通えなかったこともあり、
会社員の道に進むことになりました。
一方、母は・・
退院してから3年間、仕事にも復帰し、
父親といろんな旅行に行ったりして、
息子の私から見ても、
このままずっと長生きできるのではないか・・
そう思えるほど、元気でした。
しかし、3年後、ガンが再発し、
帰らぬ人となりました。
まだ、48歳の若さでした。
【一度はあきらめた治療家への道】
母が亡くなるのと、同じ時期に就職しました。
母を救えなかった悔しさでいっぱいでした。
早く、貯金をして、学校に行って、
立派な治療家になりたい!
そんな気持ちを持ちつつも、
だんだんと、違う思いが自分を襲いました。
「母を救えなかった人間が、他の人を救えるわけがない。」
「そもそも、母が亡くなったのは自分のせいだ。」
そんなふうに、自分を責めるようになり・・
治療家の道を断念し、
会社員の道を続けることになりました。
【そして・・10年後に。】
それから、10年が経ち、
いろいろあって、会社を辞めることになりました。
そして、心をリセットして、
一から自分の道を探すことにしました。
新たな道を探る中で、
10年前の夢を思い出しました。
「もう一度、治療家への道をチャレンジしてみよう!」
そう決意しました。
【スクールとの出逢い】
そして、色々と調べているうちに、
『「超一流の治療家」を目指す、社会人経験者の方へ』
というフレーズの、
「治療家育成スクール」のホームページに
に出逢いました。
鳥肌が立ったのを今でも覚えています。
スクールは、今はカタチを変えていますが、
当時は、社会人経験者を少数精鋭で育成するスクールでした。
代表である、荒田顕司先生との出逢いは、
私にとって本当に幸運でした。
「良い治療家になるためには、
社会人を経験してからのほうが良い」
そういう考えのスクールでした。
すごく遠回りに思えた会社員生活も無駄ではなかったのです。
早速、入学試験を受けさせていただきました。
何十人の希望者の中から、合格者は3名までという
狭き門でしたが、幸いにも合格することができ、
治療家への道に進むこととなりました。
【厳しい2年間の修行生活】
合格したときは、天にも登る気持ちで、
嬉しくてたまりませんでしたが、
すぐに笑顔が消え、今考えても、
凄まじい生活を送ることになりました。
2年間、ほとんど収入はなしです。
その間、アルバイトも一切できません。
もちろん、遊びも一切なしです。
丸一日の休みは元旦だけでした。
2年間は、妻のパート給料だけで生活しました。
本当に苦労をかけました。
朝から晩まで、勉強づけでした。
○生理学・解剖学などの基本的な医学知識
○歪みから自律神経・ストレスまでに効果のある治療技術
○さまざまな治療院の運営スキル
○治療家としての心構え・マインド
○ホームページ作成スキル
一から学ぶ日々が続きました。
【何度も自信を失いながら・・】
一通り学んだあとは、勉強は続けながらも、
実際に患者さんを迎えて、
施術やカウンセリングもする研修生活が始まりました。
研修用の治療室で、掃除から戸締りまで、
すべてを任されました。
スクールの代表や先輩方から全てのことを
一つずつ学んでいきました。
まずは、チラシ配りからです。
一から自分の患者さんに、来ていただかなければなりません。
朝から晩まで、一日に1000枚以上、
チラシを配った日もありました。
そして、少しずつ、患者さんも集まるようになり、
施術経験を積んでいきました。
当時は本当に苦しかったです。
精神的に追い込まれて、自信を失ったことも何度もありました。
自分の選択は間違いではなかったか・・
そう思ったことも、一度や二度ではないです。
でも、
今はほんとに良かったと思っています。
そして、周りの方、出会えた方々に、
今では本当に、心から感謝しています。
思い出すたびに、ありがたく感じております。
あの厳しい日々を、通り抜けたからこそ、
今の自信につながっているんだと思います。
2年間で延べ・・2700名以上の施術を経験した後、
高槻市に開院する準備を始めました。
【ついに・・開院!】
2010年5月22日。
大阪府高槻市に開院することができました。
それまでの半年は、研修室で施術を行いながらの
準備でしたので、大変でした。
特に、テナント探しは困難を極めました。
スクール独自の厳しい条件がいくつもありました。
全ての項目の条件に合うテナントを探さないと
いけませんでした。
もう、ない・・
今日見つからなかったら、
妥協して選ぶしかない。
そう思った最終日に今のテナントが見つかったんです。
(2020年に移転し、現在は二つ目のテナントです)
苦労して見つけたおかげで、
10年間、心地よく施術ができましたし、
皆様にも「なんか落ち着きます」と
おっしゃっていただけました。
(現在の空間はさらに・・
より心地いいとご感想いただいております)
開院するまでは本当にたくさんの方にお世話になりました。
スクールの代表や先輩方、仲間の皆さん、
家族や友人、仲間・・
周りの多くの方々に支えられて、
15年越しの夢にたどり着けたわけです。
【今も志を持ち続けて・・】
今現在も、母の病気がきっかけで抱いた、
「苦しんでいる人の手助けをしたい」
そんな純粋な気持ちを忘れずに、
縁有って出逢った方々に、少しでもお役に立てるよう、
施術を提供させていただいております。
院内には、一つの絵を飾っております。
絵のタイトルは、
「大丈夫!天使はちゃんと見ているよ」
この絵は、研修生のときにずっと来院下さった、
ある患者さんから、開院のお祝いに頂いたものです。
毎朝、この絵を見るたびに、
今まで頑張ってきたこと、多くの人に支えられていることを
思い出します。
今後もずっとずっと、一生涯の「天職」と思い、
亡き母や家族に・・
そして、患者さまに、
恥ずかしくないような、真摯な治療家であるよう、
頑張っていこうと思います。
長々とお読みくださり・・ありがとうございました。
*当院は、2020年5月に院名を「整体院きなり」に変更し、
徒歩5分の所に移転いたしました。